情報デザインからコミュニティーの構築を考える 情報デザイン国際会議・ビジョンプラス7 Tokyo, 1999, october 07 - 09 | |||||||||||||||||||||||
10 07 am | <コンセプト: 情報とストラテジー> ロレッタ・ステイプルズ, U dot I, Ann Arbor, 米国 | ||||||||||||||||||||||
情報デザインそしてニュートラルであるという信仰 いろいろなサブカルチャーが、情報デザインの実践を構成している。しかし、それらの多くは、理想的なニュートラル・スタンダードが力をもち、かつ支配的であるという信念でつながっている。その信仰は、行動主義的な科学によって裏付けられたものといえる。そこにいる情報デザイナーたちは、情報処理研究と人間の知覚研究に関する規範を共有し、それを取り入れ、広めている。「使いやすさ」と「分かりやすさ」というようなコンセプトはその規範の中にある。 しかし、それら規範の文化的なコンテクストに関して、厳密に細かいところまで調べるようなやり方を、彼らはとっていない。むしろ、彼らにとってなじみのある「グラフィックスによるスタンダード」を無意識に強調してしまう。ときとして、そのスタンダードは、ある人間集団がもっているいい意味での特質を無視するようなものになってしまっている。 このようなスタンダードは、一種の「グラフィック帝国主義 graphic imperialism」としてはたらいてしまう。そこでは、多様なローカルな表現が、グローバル企業の帝国主義がつくり出すスタンダードな視覚言語に包摂されてしまっている。それぞれの地域にある違いを平準化しニュートラルなものとしてしまう、スタンダードの出現と普及についての分析が大事だ。そこから、画一的な「グローバル」というアイデンティティーを生み出すことに、情報デザイナーが、いかに貢献してしまっているのかを理解することができるはずだ。 異なる文化は、それぞれ異なる地図作成法とも言える表現の伝統を発達させてきた。 全てのメッセージがそれぞれに形をもっているはずなのに、それらの中からいくつかの視覚的な言語が、国際的なスタンダードとして採用されてしまう。そのスタンダードが、他のやり方を封じ込めて普及していくことの是非は、どのように説明されるのだろう。 「伊勢」の地図がもっている挿し絵のようなスタイルは、写実的で空間的な景観表現と、ダイアグラムの要素とを独創的に結合している。そのダイアグラムは絵の外側へはみ出してしまってもいる。対照的に、ニューヨーク市の地下鉄地図は、要素を引き算することでできたダイアグラムであり、挿し絵的な要素はまったくない。 マッシモ・ビニェーリが1977年に行ったこのデザインは、視覚によるストラテジーと呼べるようなものを、ヘンリー・ベックが1922年にデザインしたロンドンの地下鉄地図のリデザインから導き出している。そのデザインは、ほとんど現在までほとんど変化してない。ベックのデザインは、その後ずっと、世界中の主要な交通システムを表すための視覚言語のひとつの原型となっている。 この視覚言語は、20世紀の欧米のグラフィックデザインを特徴付けてきた、多くの形式的な属性をもっている。たとえば、カラーコーディングを広範に使うこと、単純化した幾何学的表現、そして、概念的で図式的な表現をとるためのディテールの排除がそれらである。 これら表現属性はまた、20世紀のコーポレイト・アイデンティティの視覚的な規範においても同じような特徴としてあげることができる。この一致、ある種の視覚言語の存在と企業表現のスタンダードとの間にある一致は、特別な視覚言語に力を与えてしまうという、経済的な意図が潜在していることを示唆している。 文化に敏感なデザイン・ストラテジーを考えることは、次のことを意識することから始められなければならない。はやりのグラフィックがもっている物差し、つまり規範を知ること、それらグラフィックが生まれる根拠、社会的、経済的な原因に関する知識をもつこと、そして、それらが答えとしての妥当かどうかを批評的に判断することである。 この「グローバルな市民意識 global citizenship」の時代に、いったいどんな視覚言語が「グローバル」というコンセプトを表すのにふさわしいのだろうか。 | |||||||||||||||||||||||
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